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【 名将のリーダー論!武田信玄の名言 】
 
 
(1)
 
自分のしたいことより、
嫌なことを先にせよ。
 
この心構えさえあれば、
道の途中で挫折したり、
身を滅ぼしたりするような
ことはないはずだ
 
 
(2)
 
自分より地位の低いものが
自分と同じような意見なら、
必ずその人の意見として
採用すること
 
 
(3)
 
組織はまず管理者が
自分を管理せよ
 
 
(4)
 
信頼してこそ、
人は尽くしてくれる
 
 
(5)
 
大将たる者は、
家臣に慈悲の心をもって
接することが、
最も重要である
 
 
(6)
 
人材こそが
強固な守りになる。
 
情けは人の心をつなぐ
事が出来る。
 
しかし仇が多ければ結局は
国を滅ぼす事になる
 
 
(7)
 
人は城、人は石垣、人は堀、
情けは味方、仇は敵なり
 
 
(8)
 
為せば成る
為さねば成らぬ成る業を
成らぬと捨つる人の
はかなき
 
 
(9)
 
老人には経験という
宝物がある
 
 
(10)
 
三度ものをいって
三度言葉の変わる人間は、
嘘をつく人間である
 
 
(11)
 
甘柿も渋柿も、
ともに役立てよ
 
 
(12)
 
人を使うのではなく、
その人の技を使うのだ
(13)
 
戦は40前は勝つように
40すぎたら負けないように
するべきだ
 
 
(14)
 
大将たる者は、
家臣に慈悲の心をもって
接することが、
最も重要である
 
 
(15)
 
何もかもが思うようにいかない
 
 
(16)
 
勝敗は六分か七分勝てば良い。
 
八分の勝ちはすでに危険であり、
九分、十分の勝ちは
大敗を招く下地となる
 
 
(17)
 
過ちが有りながら拾った勝ちは、
やがては敵の勝利につながる!
 
 
(18)
 
大将は同じようなタイプの人を
好んで使うことを
避けなければならない!
 
 
(19)
 
大将があまりに怒らなければ、
家臣は油断をするものだ
 
 
(20)
 
負けるはずのない戦いに負け、
亡ぶはずのない家が滅ぶのを、
人はみな天命と言う。
 
自分はそれを
天命とは思わない。
 
すべてやり方が
良くなかったためだ
 
 
(21)
 
大将が善であれば、
その部下も善である。
 
上下ともに正しければ、
戦いに勝ち、
世の中に名前を
知られるようになる。
 
しかし、その器にもなく
名声を好むことは、
恥の根本である
 
 
(22)
 
やればできる!
 
やらなければできないことを
できないと諦める人は残念だ!
 
 
(23)
 
もう一押しこそ
慎重になれ。
 
 
(24)
 
一生懸命だと知恵が出る、
中途半端だと愚痴が出る、
いい加減だと言い訳が出る
 
 
 
− 武田信玄 −
 
 
 
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■ 実際の信玄は温和な人ではなかった!?
 
 
今回は、戦国時代の名将、武田信玄の名言をまとめさせていただきました。武信玄は、言わずと知れた戦国大名の1人で、誰でも一度は「風林火山」という言葉を耳にしたことがあるかと思います。
 
 
武田信玄公は、『 甲陽軍鑑 』に描かれている人物像が世間に広く浸透してまして、私自身もこのような好人物として生きた武田信玄という偉大な存在にあこがれていました。しかし、実際には好人物として描くためにかなり盛られていたようですね。
 
 
しかし、そうはいっても、死んでから500年近く経過しているにもかかわらず、上にあるような名言が数多く残されているわけですから、偉大な存在であることは間違いありません。
 
 
 
 
■ とことん民を大切にする人だった!
 
 
武田信玄は、顔はとても怖いですが、とても民を大切にし、民からも大変親しまれてました。例えば「信玄堤」という堤防をつくり(今でいう公共事業)、長年苦しめられていた洪水による水害を防ぐことが出来るようになったんです。
 
 
また、人間にとって生命に等しい「水」を調達しやすくなったので、民の暮らしは飛躍的に向上したため、大変喜ばれました。信玄堤は当時としては画期的なことだったので、家康の利根川東遷事業にも大きな影響を与えたとされています。
 
 
 
 
■ 信玄は大の温泉好きだった!?
 
 
戦国時代を生き抜いた武将たちは戦に次ぐ戦で心が休まる暇がなかったわけですが、多くの武将たちが心と体の健康を維持するために独自の健康法をこっそり実践していたようです。信玄の場合は、何といっても温泉です。隠し湯だけで30ヵ所もあったようです。
 
 
誰にも邪魔されず、ゆっくり湯につかりながら、心と体をリラックスさせて、いつ襲われるかもしれないという極度の緊張感によるストレスが蓄積された体を癒しながら英気を養っていたようです。隠し湯は、当然人目につきやすいところにはないので、自分の足でかなりの距離を歩かなければなりません。
 
 
つまり、足腰の鍛錬にもなるので、信玄にとっては隠し湯を利用することは、一石二鳥の健康法だったのかもしれません。しかし、毛利元就(74歳)や徳川家康(73歳)が70歳過ぎまで生きたのに対し、信玄は53歳でこの世を去っているので、戦国時代最強の武将と名高い信玄の戦人生は、相当過酷だったのでしょうね。
 
 
 
 
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■ 偉大過ぎる戦国時代のリーダー!
 
 
また、名言の中にいくつかリーダー論と取れる言葉がありますが、戦となれば大勢の兵を引き連れて長い間戦わなければなりません。通信機器が何一つないあの時代で戦略を実行い移すのは本当に大変だったと思います。
 
 
数百年経過しても残る言葉の重みは凄ですよね。特に(10)の名言は、あまりにも有名ですが、本当に的を得た素晴らしい名言だと思います。
 
 
 
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風林火山の武田信玄 カリスマ武将の凄さの秘密