【偉大な実業家!渋沢栄一の名言】
(1)
夢なき者は理想なし
理想なき者は信念なし
信念なき者は計画なし
計画なき者は実行なし
実行なき者は成果なし
成果なき者は幸福なし
ゆえに幸福を求むる者は
夢なかるべからず
(2)
事業には信用が第一である。
世間の信用を得るには、
世間を信用することだ。
個人も同じである。
自分が相手を疑いながら、
自分を信用せよとは
虫のいい話だ。
信用は実に資本であって
商売繁盛の根底である。
(3)
一個人のみ
大富豪になっても
社会の多数がために
貧困に陥るような
事業であったならば
どんなものであろうか。
いかにその人が
「富み」を積んでも
その幸福は
継続されないではないか。
故に国家多数の富を
致す方法でなければ
いかぬというのである。
(4)
人を選ぶとき、
家族を大切にしている
人は間違いない。
仁者に敵なし。
私は人を使うときには、
知恵の多い人より
人情に厚い人を選んで
採用している。
(5)
たとえその事業が
微々たるものであろうと、
自分の利益は
少額であろうと、
国家必要の事業を
合理的に経営すれば、
心は常に楽しんで
仕事にあたることができる。
(6)
もうこれで
満足だという時は、
すなわち衰える時である。
(7)
金儲けを
品の悪いことのように
考えるのは根本的に
間違っている。
しかし儲けることに
熱中しすぎると、
品が悪くなるのも
確かである。
金儲けにも品位を
忘れぬようにしたい。
(8)
一人ひとりに
天の使命があり、
その「天命」を
楽しんで生きることが
処世上の第一要件である
(9)
心を穏やかにさせるには
思いやりを持つことが
大事である。
一切の私心をは
さまずに物事にあたり、
人に接するならば
心は穏やかで余裕を
持つことができるのだ
(10)
長所を発揮するように
努力すれば、
短所は自然に消滅する
(11)
成功には嫉妬が伴い、
成功者の多くは
老獪(ろうかい)と
目されやすい。
地位と名誉には、
それぞれ付随する
慎みがあることを
忘れてはならぬ
(12)
個人の富はすなわち
国家の富である
富を成す根源は
何かといえば、
「仁義道徳」
正しい道理の富でなければ、
その富は完全に永続する
ことができぬ
(14)
入るを計りて、
出(いず)るを節す
(15)
言葉は真心を込め、
行いは慎み深く、
事を取りさばき、
人に接するには
必ず誠意を持って臨め。
(16)
人に接するには、
必ず深い敬意を持ってせよ。
宴楽遊興の時であっても、
敬意と礼を失っては
ならない。
(17)
交わってためになる
友を近づけ、
損になる友を遠ざけ、
かりそめにも
己にへつらう者を
友としてはならない。
(18)
他人を押し倒して
ひとり利益を獲得するのと、
他人をも利して、
ともにその利益を獲得すると
いずれを優れりとするや。
(19)
富貴に驕ってはならない。
貧賤を憂えてはならない。
ただ知識を磨き、
徳を高めて、
真の幸福を
求めようとすること。
(20)
目的には、
理想が伴わねばならない。
その理想を実現するのが、
人の務めである。
(21)
男はいかに丸くとも、
角を持たねばならぬ。
金はボロに包んでも金だが、
石は錦に包んでも石
(22)
国家社会をも利益する
ということなら、
余は断然自己を捨てて、
道理のあるところに
従うつもりである
(23)
身体はたとい
衰弱するとしても、
常に学問を進めて
時代に遅れぬ人で
あったならば、
いつまでも精神に
老衰ということは
なかろうと思う
(24)
四十、五十は洟垂れ小僧、
六十、七十は働き盛り、
九十になって迎えが来たら、
百まで待てと追い返せ
− 渋沢栄一 −
■ 新しい1万円札の肖像に!
平成31年4月9日、政府は20年ぶりに紙幣を刷新することを発表しました。実際に市場に流通するのは5年後になります。新しい1万円札に、日本実業の父といわれる渋沢栄一が選ばれ、5000円に津田梅子、1000円に北里柴三郎が選ばれたわけですが、1万円は聖徳太子から福沢諭吉に変わった1984年以来の変更となります。
渋沢栄一さんは、現在のみずほ銀行、東京証券取引所、王子製紙、帝国ホテル、キリンビール、東京ガスなどの設立にかかわった偉人です。ちなみに約500の会社に関わり、それと並行して日本赤十字社など約600の社会公共事業にも尽力しています。
実績だけでいえば、紙幣の肖像に選ばれるのが遅すぎたくらいなんですが、今回1万円札の肖像に選ばれたところで、渋沢栄一さんが生まれた(1840年3月16日)埼玉県深谷市は大盛り上がりとなっています。
■ 若いころは荒くれものただった!?
渋沢栄一さんは、農家の出なんですが、渋沢栄一さんのお父さんという方が、ものすごく商才のある方で、今でいうところのベンチャーを起こして色々な事業を展開していた人だったこともあって、渋沢栄一さんは幼いころから、お父さんに農業と商いをみっちり叩き込まれました。
14歳のころには、仕入れを任されるまでになっていたので、やっぱり父親に負けない商才があったんでしょうね。また、当時は幕末の混乱期だったこともあって、腕っぷしも強くないと生きていけない時代だったため、北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門し、剣術修行も行います。
このころに勤皇志士と交友を結び、「この腐った世の中を正す」的な思想に感化され、高崎城をうばって、そこで仲間を集めて横浜に行き、横浜外人居留地を焼き討ち襲撃し外国人とみたら片っ端から斬り殺すという恐ろしい計画でした。
■ 時代が渋沢栄一を求めていた!
転機となったは、一橋慶喜が徳川慶喜として江戸幕府最後の将軍になり、渋沢栄一さんは幕臣となります。そして、パリの万国博覧会が開催れ、慶喜の弟徳川昭武にお供する格好でフランスに渡ります。
現地で当時最先端の資本主義社会を目の当たりにしながら、いろいろなことを学んでいたのですが、その途中で幕府がなくなってしまい、新政府に帰国を命じられ、しぶしぶ日本に帰ってきます。
帰国後新政府に迎えられる格好で官僚として働くのですが、宮遣いが性に合わないため、すぐにやめて、それ以降時代に求められるまま、さまざまな事業に関わり、資本主義の父、日本実業の父と呼ばれるまでの存在となりました。
いまこそ全ての日本人
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実業界の父〜渋沢栄一〜